
Yamagasa
大山笠
約100年の時を越えて、
町へ戻ってきた10メートル。

大きさではなく、
戻ってきたことに
意味がある。
『相知町史 下巻』には、明治35年(1902)の山笠が高さ10メートルを超え、三台とも家並みより高く見えたと記されています。明治35年の古写真にも、山笠の中央よりやや下に立つ法被姿の人と、その後ろにいる鉢巻姿の人が写り、その巨大さを伝えています。
唐津市の市報は、大正期まで巡行されていた約10mの大山笠が2019年に「約100年ぶりに復活」したと記録しています。さらに2025年には巡行路の電柱かさ上げ工事が完了し、唐津市が「大山笠の巡行が完全復活」と発表しました。祭りの姿を今の町の環境に合わせながら再び動かしていく。その背景には、長い歴史と多くの人の働きがあります。

Early Record
慶応4年
山曳き禁止中に若者が「山曳願書」を提出した記録が町史に残ります。
Historic Scale
10m超
明治35年の山笠は家並みより高く、三台が並んだと記されています。
Full Return
2025
電柱のかさ上げ工事完了により、高さ10mの大山笠巡行が完全復活。
From Niwakayama
松の木を曳く
「にわか山」から。
町史は山笠の源流として、祝い事の際に山から松の木を根こそぎ運び出し、村人が威勢よく曳き回した「にわか山(俄山)」を紹介しています。家の棟上げや祝儀では趣向を凝らした即席の山を曳き、振る舞い酒を楽しむ習わしが大正頃まで見られたといいます。
もとは神輿に供奉する「やま」を山笠と呼び、相知では長く「やま」と呼ばれていました。明治13年(1880)には浜崎の人形師が山笠を飾り、この頃から「にわか山」が「飾り山」へ変化したと町史は記します。浜崎の祇園山笠を取り入れた相知の山笠は、囃子も浜崎に似ているとされています。
Recorded History
町史からたどる歩み
慶応4年
1868
1868
若者たちの「山曳願書」
山曳きが禁じられていた時期、馬場・梶山・山崎の三か村の若者が許可を求めました。許可前に曳き始めて差し止められたものの、11月の神祭には許され、「熊の原」の道普請にも取り組んだと記されています。
明治6年
1873
1873
大名行列の諸道具が相知へ
町史には、唐津神社にあった旧唐津藩の定紋入りの幕や参勤交代の諸道具が相知へ伝わったとあります。同年の祭りでは熊野神社の神輿を山崎河原へ遷し、鐘・太鼓、山曳きとともに大いに賑わいました。
明治13年
1880
1880
「にわか山」から「飾り山」へ
浜崎の人形師が山笠を飾り、見事な出来栄えだったと記されています。この頃から浜崎の祇園山笠の作りが取り入れられ、飾り山へ変化しました。
明治35年
1902
1902
高さ10メートルを超す三台
10月20日の神祭では山笠が相知駅前近くで倒れました。町史は、三台の山笠が家並みより高く、高さ10メートルを超す豪華な姿だったと伝えています。
昭和24年
1949
1949
戦後の復活
戦時中に途絶えていた山笠が復活。博多人形師・井上長二郎の人形で彩られ、復興した中山浮立も加わり、その盛況はNHKで全国に放送されたと町史に記されています。
2019
約100年ぶりの大山笠復活
高さ10mの大山笠が再び巡行。唐津市の市報では、3台の山笠が巡行し、約4,000人の見物客が訪れたと記録されています。
2025
「完全復活」へ
巡行路の電柱かさ上げ工事が完了。高さ10mの大山笠が再び町を巡る環境が整いました。
Process
山笠は、祭りの前から
始まっている。
巨大な山笠は当日だけ突然現れるものではありません。組み、飾り、道具を整え、囃子を合わせ、巡行へ向けて町の人が少しずつ時間を積み上げていきます。準備の風景そのものが、技術と関係を次へ渡す場所になっています。




宵山笠
灯りの中で、山笠は
昼とは違う輪郭を持ちます。
近年の相知くんちは宵山笠巡行から三日間の祭りが始まります。夜の相知宿通りを進む山笠、囃子、人の声、そして花火。巨大さだけではない、町の夜そのものを変えてしまう時間です。




参考:『相知町史 下巻』(昭和52年3月31日発行)789–793頁、唐津市「市報からつ 2019年12月号」、唐津市「相知くんち(令和7年10月17日~19日)」、唐津市「相知宿通り賑わいづくり支援事業」関連資料。